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味覚忌避学習の分子機構

我々は、行動可塑性(behavioral plasticity)、または学習行動(learning behavior)(過去の経験に基づき異なる行動パターンを示すようになること)に興味を持ち、そのメカニズムの解明を目指しています。線虫Caenorhabditis elegansは、単純な神経回路を持っており、遺伝学的解析に優れていることから、学習行動の神経回路レベル、分子レベルにおけるメカニズムの解析に有用です。

当研究室では、線虫における以下のような「連合学習(associative learning)」を初めて見出しました。餌の豊富な条件で培養した線虫はNaClに対し正の走性(誘引行動)を示しますが、NaCl存在下で一定時間飢餓を経験させるとNaClに対し負の走性(忌避行動)を示すようになります。しかし、NaCl非存在下での飢餓、あるいは餌のある状態でのNaClの呈示によってはこの行動変化は起こりません。従って、この現象はNaClと飢餓を関連付けて覚える連合学習であると考えられます。この連合学習を「味覚忌避学習」と呼んでいます。

図1 餌の豊富な条件で培養した線虫
NaCl濃度勾配の作られたプレートの真ん中部分(=start point)に線虫を置くと、NaCl濃度の高いところに誘引される。
      
図2 NaCl存在下で飢餓を経験させた線虫
NaCl濃度勾配の作られたプレートの真ん中部分(=start point)に線虫を置くと、NaClを忌避する。



味覚忌避学習において働く分子

外界に存在する食塩などの水溶性物質は「ASE」と呼ばれる感覚神経で受容されますが、このASE神経内、それに接続する神経群、更には筋肉細胞で、塩走性学習中にどのような分子が働いているのでしょうか?その問いに答えるため、塩走性学習が正常に起こらない変異体を探索しています。
現在までに、インスリン様シグナル伝達経路(図1)の変異体とカルシンテニン相同分子CASY-1(図2)の変異体が著しい学習欠損を示すことを見つけています。これらの分子は学習に必須の機能を担っています。

      

学習制御分子が働く細胞の同定

インスリン様シグナル伝達経路で働くPI3キナーゼAGE-1とカルシンテニンCASY-1はASERと呼ばれる神経において、学習を制御しています(図1)。カルシンテニンCASY-1はインスリン様シグナル伝達経路の構成分子ではありませんが、インスリン受容体をASER神経のシナプス部位に輸送し、そこで経路を機能させるのに必要な分子です。ASER神経は、前述のASE感覚神経の1つです。ASE感覚神経は左右対称なASEL(左側のASE)とASER(右側のASE)からなります。これらは、構造は似ていますが、重要な機能の違いをいくつか持っています。我々の解析から、学習における働き方もASERとASELで異なることが新たに分かりました。

学習において働くインスリンINS-1

線虫は40種類ものインスリン相同分子を持っています。その中で、塩走性学習に重要な働きを持つのはINS-1です。INS-1は腸と神経細胞で作られますが、神経細胞から分泌されるINS-1が学習の制御に重要です。神経細胞で産生されたINS-1はプレシナプス部位に局在化し、そこから分泌されます。INS-1は神経ペプチドのような働き方をしているのです。

高等動物の脳で働くインスリンとカルシンテニン

我々ヒトを含む哺乳類が持つ複雑な脳の働きは多くが謎に包まれていますが、インスリンもカルシンテニンも哺乳類の脳でも働くことが分かっています。これらの分子は、記憶や認知症などに関わっています。線虫の研究を糸口にして、我々の脳で働くインスリンやカルシンテニンの解明に繋がるかもしれません。

インスリン経路とDAG/PKC経路

線虫の塩走性学習の切り替えは可逆的で、塩への誘引行動から忌避行動への切り替えは、味覚神経ASERにおけるインスリン様シグナル経路の活性化によって引き起こされることが分かりました。塩走性学習の更なる理解のために塩への忌避行動から誘引行動への切り替えについての解析を行ったところ、誘引行動にはDAG/PKC経路の活性化が必要であることが明らかとなりました。DAG/PKC経路では、細胞膜中に存在するイノシトールリン脂質PI(4,5)P2をもとにPLC(ホスホリパーゼC)によってDAG(ジアシルグリセロール)とIP3が産生され、DAGがTTX-4/nPKCを活性化することで塩への誘引行動が促進されます。従って、インスリン様シグナル経路とDAG/PKC経路が拮抗的に切り替えを制御すると考えられます。さらに、塩走性学習の制御に必須な2つの遺伝子pitp-1/ホスファチジルイノシトール輸送タンパク質plc-1/ホスホリパーゼCεを同定しました。これらの遺伝子はASER神経のプレシナプス部位においてDAGを産生するために必要であり、塩への誘引行動を促進することが明らかになりました。また、これらの遺伝子の変異体の解析から、誘引行動と忌避行動の出力の制御は部分的に共通していることが示唆され、今後、塩走性学習の切り替えのメカニズムを理解するための基盤になると考えられます。

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